お守りをもらう
家は浄土宗の檀家だけれど、子どもの頃から、神社に行くことに慣れ親しんでいる。
「わたしはクリスチャンだから神社の敷地内に入れません」という方に出会ってはじめて、「そうか、神社は宗教かぁ」。
お賽銭をなげ、鈴をならして"神さん"に「来ましたよ」とお知らせし、手を打ってこっちを向いてもらい、頭を下げ、手を合わせて、さあお祈りして。
祖母か母か、誰から教わったのか覚えていないけれど、
子どもの頃から、これが恥ずかしくてできなかった。
大人になっても、やっぱり恥ずかしくてなかなかできないでいた。
"神さん"って?
何かのタイミングに不思議な偶然がおこったり、人間の力を超えた自然界のパワーを感じたり、”神”はそこら中にいる、と子供の頃感じていた。
なので、神社の”神さん”って誰?
日頃、自分の力で自分の意志で結構うまく生きていると思う大人にとって優先されるのは、社会のルールだとか、学歴とか、仕事、常識とか、お金儲け、とか、実利のはずで、そこに、"神さん"に感謝とかゆだねて生きるとか、分け隔てのない愛とか、一日一善とか(?)、信心はどこにあるのだろうと思っていた10代でした。
冒頭の写真は、奈良県にある石上神宮(いそのかみじんぐう)のお守り。
これが、自分の意思で初めてお守りを持ち歩くようになったきっかけとなりました。
というのも、
このお守り、願意は、「起死回生、百事成就、除災招福、無事息災」
「起死回生」
このパワフルな言葉に、めまいを起こしそうなほど、心を掴まれた。
「もうだめだ…これまでだ…」自分にとって"神さん"にすがるであろう究極の場面がみえた。
生と死。
これを身近に感じる時、神なるものを思うはず。
「ああ、日頃の行いが…」
と悔やまなくて済むよう、この人生に感謝と愛情を忘れずに
"神"なるパワーを感じつつ、生きていこうと思った、そういうお守りです。
正しいお参りの仕方。