気になるドラマのセリフから。
フィクションは、作り話。でも作られたストーリーの中に、”真”がみえる。
だから、良い作品をみるのは無駄な時間じゃない。
これは、芸術全般にいえることで、一見、良く分からない現代アートでも、じんわりと伝わってくるものがある。
芸術は人間を受入れ許容するもの、と思っている。
そういえば、昔のアメリカ映画で、こんなセリフがあった。
「人生はどしゃぶりの雨。芸術は傘。」
最近、NHKのドラマ「探偵ロマンス」というのを見て、良いセリフがあったので、ここにメモしておこうと。
第3話。草刈正雄さま演じる探偵「白井三郎」が、クライマックス、犯人の「おひゃく」に言う。
「苦しかったなぁ。でもその苦しみを他人にぶつけちゃいけねぇ。」
なんだか、しんみりとなった。
10人いれば10通りの苦労があるのは、ちょっと想像力を使えばわかる。でも、なかなかそれをしないし、してもらえない。
どんなに理不尽な状況にあっても、どんなに辛くても、悲しくても、苦しくても、怒りが湧いてきても、それを言い訳に、暴力というやり方でぶつけてはいけない、のが、大人の約束事なのだ。
他人への暴力はもちろん自分への暴力もよくない。
いろんなことがあって、思いも複雑になって、生きてゆくのは難しい。
そんなこんなで、ほんのひととき心を楽にしてくれるのは、芸術と、人の優しさ。
幸せを心の中に見つけられるようになるのが、生きてゆく理由かもしれません。
おすすめ:
NHK world Japanのサイトに、Drama Showcaseというのがあって、
NHKの過去のドラマがみられます。ただし、海外向けなので、英語の字幕入りです。
ほかにも、良いドラマあります。
京都の山を歩くレポート①東山
京都一周トレイル 東山を歩きはじめる。
伏見桃山~藤森へ
京都一周トレイルの案内板をみつけ、迷ってないことを確認。
伏見桃山城運動公園を通り抜ける途中、お城もみられる。
(もと遊園地内のレプリカのお城)
ときどきアスファルトの道を通り抜ける。
急な坂の住宅地。「八科峠(やつしなとおげ)」の碑。昔は難所だった峠。
ふたたび山の中にはいってゆく。今回のメイン、大岩山、大岩神社へ。
大岩山展望所。ここから、大岩神社へ向けて下ってゆく。
下りへの入り口。ちょっとドキドキ。この先、マムシ注意の連続。
大岩神社への参道途中。崩れたままの鳥居。荒れた感じが神秘的にうつる。
大岩をご神体とする大岩神社
そして古代遺跡、発見。
ではなく、堂本印象作の石の鳥居。
竜神伝説?の池。いかにもな、風情
青が美しい竹林のトンネル
鳥居をくぐって、アスファルトの道へ出た。
こちらが参道入り口。
なので、今回は裏から表へ通り抜けたということ。
もう少しで、下山というところで、ふくらはぎや足首がつって歩くのが辛くて…
はじめての山歩きなので、仕方ないか。ということで
電車に乗る前に足を休めることに。
藤森駅近くの喫茶店Nattyさんで、マフィンとアメリカンコーヒーをいただいた。
(ホントにおいしいコーヒー)
以上レポート終わり。
気がつけば梅雨入り。
次回は、いつになることやら。
お守りをもらう
家は浄土宗の檀家だけれど、子どもの頃から、神社に行くことに慣れ親しんでいる。
「わたしはクリスチャンだから神社の敷地内に入れません」という方に出会ってはじめて、「そうか、神社は宗教かぁ」。
お賽銭をなげ、鈴をならして"神さん"に「来ましたよ」とお知らせし、手を打ってこっちを向いてもらい、頭を下げ、手を合わせて、さあお祈りして。
祖母か母か、誰から教わったのか覚えていないけれど、
子どもの頃から、これが恥ずかしくてできなかった。
大人になっても、やっぱり恥ずかしくてなかなかできないでいた。
"神さん"って?
何かのタイミングに不思議な偶然がおこったり、人間の力を超えた自然界のパワーを感じたり、”神”はそこら中にいる、と子供の頃感じていた。
なので、神社の”神さん”って誰?
日頃、自分の力で自分の意志で結構うまく生きていると思う大人にとって優先されるのは、社会のルールだとか、学歴とか、仕事、常識とか、お金儲け、とか、実利のはずで、そこに、"神さん"に感謝とかゆだねて生きるとか、分け隔てのない愛とか、一日一善とか(?)、信心はどこにあるのだろうと思っていた10代でした。
冒頭の写真は、奈良県にある石上神宮(いそのかみじんぐう)のお守り。
これが、自分の意思で初めてお守りを持ち歩くようになったきっかけとなりました。
というのも、
このお守り、願意は、「起死回生、百事成就、除災招福、無事息災」
「起死回生」
このパワフルな言葉に、めまいを起こしそうなほど、心を掴まれた。
「もうだめだ…これまでだ…」自分にとって"神さん"にすがるであろう究極の場面がみえた。
生と死。
これを身近に感じる時、神なるものを思うはず。
「ああ、日頃の行いが…」
と悔やまなくて済むよう、この人生に感謝と愛情を忘れずに
"神"なるパワーを感じつつ、生きていこうと思った、そういうお守りです。
正しいお参りの仕方。
ヨガ話2_"ヨガ"と"ヨーガ"
日本語には外来語がたくさんあって、カタカナ表記で表しますね。
元の言語の正確な発音をカタカナに変換するのはむずかしく、同じ語でも日本語上使い分けていたりいなかったり。
たとえば、
swing → スイング スウィング: ゴルフはスイング、音楽はスウィング?
Hepburn → 女優さんは(オードリー・)ヘップバーンで、ヘボン式ローマ字表記法のヘボン(Hepburn romanization)もあり。
Stevenson → スティーブンソン、スチーブンソン、スティーブンスン 全部同じ人です
余談。
アメリカの人に「Do you like MILO ?」とか聞かれて、
何のことがわからず、商品をみせてもらって、
ああ、ミロ、(子供が大好きなココア味の飲み物)
英語でマイロと言っていたのを、思い出した。
英語でYoga
カタカナにすると「ヨガ」(正確には、ヨウガと聞こえるかも)
元は、サンスクリット語の言葉。
では、サンスクリット語ではどうかというと、
少し伸ばす音になり「ヨーガ」に近いようです。
「ヨガ」「ヨーガ」のちがいは、カタカナ表記のちがいで、決まった使い分けがあるわけではないようです。
ここからは、個人的印象になりますが
「ヨーガ」と表記されているとき、単なるエクササイズやフィットネスじゃないヨガ、インドの伝統的要素、精神性を伝えようとしている印象はあります。
興味あれば。
比較言語学では、「インド・ヨーロッパ語族」に分類される。
ギリシア語、ラテン語などのヨーロッパ諸語やペルシア語と同じ起源をもつ、最も古いインド語。バラモン教の儀礼に用いられる「神々の言葉」であり、祭官が聖典「ヴェーダ」やヴェーダ補助学を伝承するための言葉だった。時代が下り、政治的な発話や仏教の作品にサンスクリット語が採用されるようになっていった。
(参考文献「岩波講座世界歴史4 : 西アジアと東南アジア~十五世紀」"サンスクリット語とパーリ語のコスモス")
ほか、参考「ヨーガの思想/山下博司著」(講談社選書メチエ)
ヨガ話1_そのややこしさについて
「ヨガ」というもの、そのイメージにかかっていたあやしげな靄(もや)が、ヨガを調べ始めてからすっかり消えました。
例えば「オームOm」と聞くと一歩引く、たぶん私と同じくらいの世代から上の人たちは今もそうかもしれない。
ヨガを理解するのはややこしい。そのややこしさは、どこからくるのかを考えてみた。
箇条書きにする。
・ヨガの起源は、インドの古代、インダス文明にさかのぼることができる。
そしてインダス文明には、文章の記録や書物が残されていないので、よくわかっていないことが多い。
・ヨガは、インドの古代宗教・古代思想・哲学から生まれたもので、ヨガとして確立される以前は、精神統一の修行として行われていた。
・多くの師から多くの弟子へ受け継がれてきたので、いつだれがどこで始めた、とか、いつだれが書いたものが正真正銘本家本元ヨガだと言えない。
・ヨガには、カタカナの意味不明のキーワードがたくさんある。その正体はサンスクリット語。
謎をひとつひとつ、探ってみたいと思います。
↓人類の出現から、世界の文明、歴史を時系列でみられます。↓
「おとなになったら」きらきら?
今週のお題「おとなになったら」
お笑いコンビ"たんぽぽ"さんのネタをみていて、笑ったのが、ネタ中で川村エミコさんが言ったセリフ。「二十歳になったら、きれいになれるとおもってた!」
子どもの頃、なんとなくそんなイメージでした。自然にそんな風になってゆくのかなぁと。ちがいますね。研究して努力して美しくなってゆくのですね。
美輪明宏さんいわく「泥付き大根のままじゃダメ。」の言葉にすこし反省。
いま私は中年ですが、10代20代の若い皆さんをみると、キラキラしてみえます。ちっちゃい子供なんてもう輝く”未来”です。おとなになったら、きらきらするのではなく、世界のきらきらに気づくようになります。
上手く歳を重ねたらこの先「What a wonderful world」(ルイ・アームストロング)の歌詞のように世界を見ることができるかもしれません。もうすこし、大人になりたいものです。
瞑想と座禅
ヨガと瞑想が日常になった現在ですが、
座禅、は瞑想とどう違う?同じ?
体感したくなって、座禅を少しやってみた今の個人的感想です。
座禅は目を閉じず、瞑想のときは目を閉じて、
手の組み方、置き方も違います。
座禅は、静止してる感じ。
瞑想は深まってゆく、広がってゆくイメージ。
座禅は、考えず、想わず、心もざわめかず、計りごとのない意思の世界。
瞑想は、呼吸、頭のリラックス、身体のリラックス、心の安定と静けさの感覚。
座禅は組織人になじむ。
瞑想は個人になじむ。
座禅は冷静沈着へ向かうイメージ。
瞑想は歓喜(微笑み)へ向かうイメージ。
座禅は文化人的。
瞑想は自然人的。
座禅は収め、瞑想は解放へむかう。
共通するのは、呼吸を大切にすること。心に静けさが訪れること。集中力が増すこと。
いまのところ、朝は座禅、夜は瞑想が気持ちいい。
この先、どう変わってゆくか。楽しみです。
どこで座禅するか、というと部屋です。
お寺に行くのはなかなかハードルが高い。
頼りにしているのは、オンラインと動画。
Zoomのオンライン座禅会とYouTube動画を探し、見つけたのが臨済宗の座禅会でした。
なかでも気になったのが野沢龍雲寺さんのYouTube動画。
「座禅をしても何も得るものはありません。」との言葉に改めて目からうろこでした。
座禅がブームになってから、あちこちで講座の宣伝を目にするようになり、で、何かを得たい人が座禅するのかと思っていました。
いま、ジョン・カバッドジンさんの「マインドフルネスを始めたいあなたへ」
という本を読んでいます。
瞑想、座禅、マインドフルネス。
瞑想には瞑想の、座禅には座禅の歴史と文化的背景があり、それが現代にマインドフルネスとしてよみがえった。
すべて同じ、ポイントは”手放す”なんですね。
野沢龍雲寺さんYouTube
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